水俣・写真家の眼のプロジェクトに参加している写真家を紹介します。
アイリーン・美緒子・スミス Aileen, M, Smith
1971年秋から水俣病取材のため、水俣に3年間住む。1975年、写真集『MINAMATA』をユージン・スミスと出版。日本語版は1980年に出版。1980年、『かくれ切支丹』を遠藤周作と出版。1983年、コロンビア大学公衆衛生学部・環境科学の修士号取得。1980年代初頭から原発問題に取り組み、今日に至る。その内容は原発の安全性・老朽化問題、核料政策、原発と温暖化問題等に関する市民活動。2021年 、写真集『MINAMATA』日本語版を再出版。京都在住。環境NGOグリーン・アクション代表。有限会社アイリーン・アーカイブ社長。
芥川仁 AKUTAGAWA Jin
1947 年愛媛県生まれ。3歳から高校卒業まで宮崎市で過ごす。法政大学社会学部二部 (夜間部) 卒業後、フリーランス写真家。夜間中学、三里塚闘争、宮崎県高千糖町の土呂久鉱毒事件などを取材。1978年3月、水俣病患者が環境庁に座り込みをした際、水俣病事件の夜害者と出会い、その年の12月に水俣へ。水俣病センター相思社に企画部が特設され、約1年半の間、相思社の職員として患者の畑仕事などを手伝いながら水俣病事件を取材。1980年、芥川仁写真集 『水俣・厳存す る風景』として相思社から自費出版。現在は宮崎市在住。1992年、写真集『輝く間』で宮崎日日新聞出版文化賞受賞。
石川武志 ISHIKAWA Takeshi
1950年愛媛県生まれ。1971年ユージン・スミスと出会う。アシスタントとして水俣に移住。ユージンに勧められ水俣の撮影を始める。1975年渡米。以後フリーランスカメラマンとなる。1978年シルクロード取材を機に、 以後アジアの祭りや民族等を取材する。1982年インドのトランスジェンダー 社会「ヒジュラ」の取材開始。1985年新宿ニコンサロンにて写真展「ヨーギ」開催。1988年ミノルタ・フォトスペースにて写真展「ヒジュラ」開催 。 2008年水俣の取材を再開。2012年銀座・大阪ニコンサロンにて写真展「水俣ノート」を開催し、写真集『MINAMATA NOTE 1971 ~ 2012 (私とユージン・スミスと水俣)』を出版。
北岡秀郎 KITAOKA Hideo
1943年熊本市生まれ。広島大学卒。私立高校教員を経て1972年水俣病訴訟弁護団に勤務。弁護団事務局の仕事を通じて水俣病原告の本人尋問に接し、記録の必要を感じ撮影を開始。写真家小柴博愛氏に師事、写真の基礎を学ぶ。1975年より『月刊みなまた (1996 年7月終刊)』発行。
1980 年写真集 『不知火の詩』を上梓し、普通の住人の何気ない一 コマ、 苦悩の一 コマ、 そしてしたたかな生活と闘いを収めた。2016年より『月刊ミナマタ』の発行を開始し、「ハンセン病」「川辺川ダム」問題等にも接し撮影、発信。2023年2月、死去。
桑原史成 KUWABARA Shisei
1936 年島根県津和野町生まれ。1960年7月から水俣病の撮影を開始。フォトジャーナリストを志望し、取材テーマを模索していた時、水俣病を知る。郷里の笹ケ谷銅山の鉱毒と重ね合わせた。現実の実態を「生で表現する実写の写真」では、来館者や読者が拒否反応を示す可能性があると知り、 記録写真の持 つ冷徹な情報量を大幅に減少したとしても 、受け手に「記憶に留めて貰える」映像表現に努めて来た。水俣病は多くの死者を出していて、公式確認から66年が経過した今もなお受難者たちがいる。 主な撮影テーマは、「水俣病」「筑豊炭田」「激動の韓国」「沖縄」「ベトナム戦争」「北朝鮮」「アラスカ」「カンボジア」「日ソビエト連邦の崩壊」など。
小柴一良 KOSHIBA Kazuyoshi
1948年大阪府生まれ。 1972 年、西川孟写真事務所に撮影助手として入所。その間、土門拳氏の「 寺巡礼1 大和篇』『女人高野室生寺』などの撮影助手を務める。1974年より、水俣、出水の水俣病取材を開始。その頃は裁判も終わり 、認定された人達は内に籠っていた様に思う。撮影は困難を極めたが、出水市の男性と出会い、撮影が始まった 。男性は未認定のまま亡くなった 。2007年「水俣を見たて人の写真家たち」展に参加。2009年、写真展「水俣よサヨウナラ、コンニチワ」を新宿 及び、大阪ニコンサロンにて同時開催。その後 、写真集を出版。2018年、写真展「FUKUSHIMA ・小鳥はもう鳴かない」を銀座・大阪ニコンサロンにて開催し、同名の写真集を出版。
塩田武史 SHIOTA Takeshi
1945年香川県高松市に生まれ。 1966年、法政大学社会学部に入学、カメラ部入部。 1967年沖縄の被曝者を訪ねた帰途、水俣を初めて訪問。1970年、水俣に移住。1971年、銀座ニコンサロンで初の個展「水俣・深き淵より」開催。1972年、弘美と結婚。水俣病患者とともに、国連人間環境会議・ストックホルムを訪問、1973年、写真集『水俣・深き渕より』を出版。1974年国連環境計画(UNEP)主催の第1回「世界環境写真コンテスト」で特別賞を受賞。1975年、水俣病患者ともにカナダの原住民居留地を訪問・取材。1985年、熊本に移住。2008年、『僕が写した愛しい水俣』を出版し、第30回熊日出版文化賞を受賞。2013年『水俣な人・水俣病患者を支援した人々の軌跡』を出版。2014年9月死去。
田中史子 TANAKA Fumiko
1941年長野県生まれ。私は水俣へ行くまで「水俣病は一眼見ればすぐわかる」と思っていた。1987年に行われた大規模な現地調査で、100人以上の水俣病患者が見つかった。「患者が1000人いるなら100人の取材をしよう」と思った。「とにかく手足のしびれを撮らなくては」と。しかし、それもいつ見られるかわからない。いったいどう撮れば良いのか。私は途方に暮れた。患者に会ったとき「あなたの水俣病を見せてください」が 、私の最初の言葉だ。今でも不知火海浴岸の住民は苦しんでいるのに、国の一斉調査は一度も行われていない。水俣病は終わっていないのだ。」1987年から水俣での撮影を開始。1994年、個展「生(いのち) ー40年目の水俣病一」を開催し、同名の写真集を出版。
宮本成美 MIYAMOTO Shigemi
1947 年東京都に生まれ。1970年、業界紙の仕事で、厚生省水俣病補償処理委員会への抗議の現場を取材したのが水俣病との出会い。人々のありようは、何か異様な存在感があり『苦海浄土』 の世界に引き込まれるには十分なものだった。以後、巡礼、 一株運動、劇 「苦海浄土」、自主交渉、砂田明 「海よ ・母よ ・子どもらよ」、不知火海学術調査団、緒方正人、東京水俣展等を取材し、記録してきた。どこかで自分が何かの「役に立つ」と思ったところから、水俣との関係が深くなった。役に立てば立つほど 、その人の立場はより「水俣」への加害の側に寄っていく。2010年、写真集『まだ、名付けられないものへ、または、すでに忘れられた名前のために』出版。